湯菜岸 時也『奥会津編み組細工』

 彼は西へ沈む太陽を眺めながら、軒に吊るされた編み組細工を思いおこしていた。
 山葡萄の蔓などを組んで作った籠や笊は『寒ざらし』で、雪の上で反射した日光に照らされて象牙のように白くなる。
 では自分はどうか? と、彼は考えた。山野に捨てられて早三年。風雨に曝されたおかげで、乳白色だった表面は黒く汚れ、所々に苔が生えているような醜い姿となっている。
 今さら四方に飛び散った残骸を組み立てて、『道具』にする物好きなどいない。土になるしかない身の上だ。
 この過酷な運命を呪うあまり、捨てられた『道具』は人を怨んで『化物』(つくも神)になるという伝説にすがり、変化(へんげ)を望んだ時期もあった。
 だがある疑問がその転生を躊躇させた。寺の巻物に描いてある『化物』は『人』の姿に近いというが、本末転倒ではないか? 
 《憎む相手の姿さ、なるなば、あんべわりぃ!》(憎む相手の姿になるのは嫌だ!)
 このまま朽ちては悔いが残る。熟考するうちに、ふいに一つの望みが生まれ、それが彼を戸惑わせた。恨みとは逆の考えだったからだ。木から道具になったモノが『化物』になるのなら、その逆は? 掟で倅から壊れた『道具』のように捨てられたが、こんな俺でも木になれば――。
 《それなば、あんべいい! んだば何の木さなる? 栗だ! 栗なば、ぼっこれじゃねえ!》(それならいいぞ! なら何の木になる? 栗だ! 栗なら役立たずじゃない!)
 いずれ飢饉はまた起きる。その時、同じ境遇の者が此処に来れば、惜しみなく実を与えよう! そう決心して――。
 《お天道様! どうか! そうしてけらい!》(そうして下さい!)
 かつて農夫であった頭蓋骨は、今日も天に祈った。