村岡好文『潮の香り』

 ふっと潮の香りが吹き込んできた。以前にはあり得なかったことだが、町のほとんどが呑まれたあの大津波の日以来、風向きによってはこの山中の一軒宿にも潮の香りが届くようになった。
 その客が入ってきたのも、そんな匂いと一緒だった。明日からお盆という日の夜遅く、小さな鞄ひとつを持って、疲れたような表情でその初老の男はこの宿に着いた。
 宿帳に記された男の住所は仙台だった。私も津波の被害に遭ってね、と男は言った。この町には親戚がいたのだが、様子を見に来ることもできなくて、やっとこの時期にね、と安堵と不安が入り混じったような顔で男は話した。明日は一日、朝早くから夜遅くまで、その親戚の無事を確かめに歩き回るのだそうだ。
 その言葉どおり、翌日は朝食もとらずに男は出かけて行った。戻ってきたのは深夜だった。私は寝ずに待っていて、男を出迎えた。
 いかがでしたか、と訊ねると、玄関のぼんやりとした灯りの下で、男の顔がにっこりと微笑んだ。元気でしたよ、避難所暮らしが長かったようだが、仮設住宅に入れてね、これで私も安心して帰ることができますよ。男の表情には、疲れも不安もなかった。私は、それはよかった、今夜はゆっくりお休みください、温泉はいつでも入れますよ、と声をかけ
た。男は嬉しそうに礼を言って、二階の客室への階段を上がっていった。
 翌朝、仲居が慌てた様子で私のところへ駆け込んできた。例の男が消えたというのだ。私は仲居と一緒に客が泊まっていた部屋に入った。中は空だった。布団には人が寝た様子もなかった。ただ、締め切った部屋の中に、潮の香りが漂っているだけだった。