佐為 夜一郎『這い出でよ』
「あーっ、気持ちいい!」希は大きく両手を広げて深呼吸をした。
「いいところだね」希は暁の顔を覗き込む。満更でもない表情をした暁はバッグから手帳を取り出し、「こっちだ」と歩き出した。
「どこ行くの?」
「芭蕉って知ってる?」
「知ってるよ。『静けさや岩に染み入る蝉の声』でしょ?」
「そう。それも東北で詠んだ歌だよね」
「で?何だって言うの?」
「ここにも芭蕉が来たんだ。その歌を詠む前に」
「へー、どういう歌?」
返事はない。暁はいつもこうだ。この旅行も希には何も相談せずに、「山形に行こう」と勝手に計画を立ててしまった。しかし紅葉前でもこの地は充分に美しく、素晴らしい旅が始まっている。希は真剣な表情で手帳を覗き込んでいる暁を見て優しい気持ちになる。
「ここだ」
立ち止まったのは美しい沼のほとりにある祠の前だった。
「這い出でよ飼い屋の下のひきの声」暁が呪文のような歌を詠んだ。
「何それ、気持ち悪い」
希の言葉に苦笑した暁が応える。
「万葉集にある、繁殖期のヒキガエルの声から連想した恋の歌を、芭蕉がもじってこの地で詠んだというわけ。ロマンチックじゃない?」
「ちっとも。『這い出でよ』なんて、不気味」
「そうかなあ、いいじゃないか。出て来いカエル、這い出でよ。そして僕らを――」ぼとん
後ろの沼で音がした。
2人が振り返ると、巨大なヒキガエルが口を開けていた。鼻を刺す腐臭が漂った。
「逃げろ!」
暁が希を突き飛ばすのとほぼ同時に、暁の身体はその大きな口に吸い込まれた。放心状態で街の交番に駆け込んだ希は事のあらましを説明したが、若い警察官は驚きもせず大きな口を開けて欠伸をするだけだった。狭い交番の中にドブのような匂いが広がった。
数週間後、そこから遠く離れた海岸の崖下から暁の車が引き上げられた。地元の新聞には「若いカップルの単独事故、心中か」という記事が小さく掲載された。遺体はついに上がらなかった。