クジラマク『幽契』

 勝利の雄叫びのつもりか、崖に追われた俺に向かい屠殺場の豚の断末魔のような咆哮をヤツが闇夜に吐いた。追っていたつもりが追い詰められていた。後がない。万事休す。頼みの村田は弾が詰まり使い物にならない。残るは槍一つ。ないよりはマシか。空薬莢を吹いたから運よきゃあ仲間が駆けつける筈。黒い巨体が伸び、念を押すようにまた醜い雄叫びを上げた。腐った口臭が俺の鼻を衝く。山で生きる者なら誰でも命の危機を感じる事など一度や二度はざら。そん時は決まって山ん神に命乞いをする。風習因習を重んじるマタギの癖のようなもんだ。醜女の山ん神の御眼鏡に適えば助かるし、駄目ならお陀仏。簡単な話だ。ヤツが扁平な腕を俺目掛け振り下ろした。応戦虚しく爪先が俺の上半身を容赦なく抉り、その力で呆気なく崖から突き落とされた。滑落した俺の体は見るも無残。碌に息も出来ねえ。山ん神口伝の傷癒の真言を絶え絶え唱える。山ん神に見初められ契を結んで生還したマタギ達は天寿を全うすると醜い女神に仕え、彼女に仇名すモノどもを蹴散らす為に山を奔走する。ヤツが崖を下ってきた。雲が晴れヤツの姿が月光に晒される。異形の魔。俺の前でヤツは自分の太鼓腹を自らの手で裂き、デロリと血みどろの腸を腹からかき出した。湯気立つヤツの腸が無数の繊毛を使い蠢き体内から千切れた。ヤツは失った腸に代わり俺を腹に詰め込む算段だ。真の山では人の理などない。真言で癒えかけた俺にヤツの魔手が。紫光が魔性の頭蓋を弾き、砕けた銃弾から酸蟲菌が飛びヤツの頭を焼く。仙汰の村田だ。無様に啼くヤツの足に三吉の虎鋏を鎖で幾つも連ねた鞭が絡んだ。俺は滅魔の真言を唱え、ヤツの急所の脇腹へ止めの槍を刺す。百足の如きヤツの腸が林の中へ。あれは悪食で喰ったものに妖遷し、狩り零すと後々面倒だ。林からヤツの腸を奪い合うように喰らう二匹の狼が躍り出た。頭領が使役する双子の狼、陰と陽。どこかで化鳥が啼く。