村岡好文『太古の虫』

 彼がなぜそれを買う気になったのか、おそらく彼自身もわからない。久慈は琥珀の産地である。しかし彼にはそんな物を身につける趣味もなければそれを贈る相手もない。彼が指先ほどの琥珀のかけらを買ったのは、だから運命だったのかもしれなかった。虫や草が入った高価なものではない。ごく小さな泡が一つ浮かんで見えるだけの安い品であった。
 案の定、彼はそれを机の上に放り出したまま、その存在すら忘れてしまった。だがあるとき、ふとそれが目についた。埃を払ってそれを光にかざした彼は目をみはった。中に、何かある。それは小さな卵のように見えた。
 翌日にはその卵は更に大きくなり、更に翌日、それはうごめいていた。何かの幼虫か、と彼はつぶやいた。青白い、芋虫のようなものが、黄金色の石の中で身をよじっていた。
 それは少しずつ大きくなっていった。と同時に先端が膨らんで、やがてその部分が人の顔のようになった。顔は日増しに形を整え、三日もすると目鼻立ちがはっきりしてきた。それは少女の顔であった。
 彼は、少女の顔を持った虫をじっと見つめた。これは太古の生き物なのだろうか。科学界にも未だ知られていない生き物であることは間違いない。相手もまた彼を見つめた。何かを訴えかけるような眼差しであった。
 不意に彼は悟った。彼女は外へ出たがっている。彼は手近にあった大型のマッチ箱の中身をぶちまけ、その中に綿を敷き、琥珀を置いた。そうしてペンを琥珀に突き立てると石は案外もろく割れた。その瞬間、少女がにっこりと微笑んだように思えた。

 警官とアパートの大家が彼の部屋の扉をこじ開けた時、彼は机の上に置いた箱を前に恍惚とした表情を浮かべて息絶えていた。箱の中には、虫の抜け殻のようなものが入っていた。そして部屋のどこかから、かさこそという物音が警官と大家の耳にも聞こえてきた。