田麿香『売国奴の厚顔』

 かつて、現在の岩手県奥州市、衣川の流れるあたりには、たびたび恐ろしい化け物が現れたという。その姿はほとんど人のようでありながら人には見えず、鬼のようでありながら鬼には似ても似つかなかったと伝わる。
 それが現れるのは、決まって夕暮れも暮れの、空が紫色に染まる頃――あるいは夜明けはじめの、薄暗い薄明かりの中だった。
 夕焼けの赤光に目を細めながら。あるいは薄闇に目を凝らし朝焼けを待ち望みながら。衣川のほとりを独り歩いていると、いつの間にか。その人とも鬼ともつかぬ化け物たちに、何十匹もで取り囲まれているというのだ。
 恐れ慄き、腰を抜かして震えていると、命を寄こせ、命を寄こせと迫ってくる。どうかお助けをと命乞いをすれば、ならば代わりに親や子、兄弟姉妹や親友、恋人など、大切な者の命を差し出せと言う。それがまた的確に、その人間の最も大切にしている者を名指してくるのだ。早くに父を亡くした若者には、女手ひとつで育ててくれた母を。余命幾許もないと告げられた矢先に初孫が生まれ、これでもう思い残すことはないと満足していた老人にはその孫を。さらに忠義に篤い侍には、ずばり主君の命を要求したことさえあったというから、徹底している。
 そして、そんなことは出来ないと突っ撥ねれば命を奪われ。どうぞ差し出しますから私の命だけは助けてくださいと言えば、化け物たちは満足げに頷き合って消え去り、何事もなく助かったという。
 平安時代の始め頃から現れるようになり、明治維新の激動とともに姿を見せなくなったこの化け物。一説には、その正体は坂上田村麻呂による蝦夷征伐の際、朝廷側に寝返った者たちの亡霊ではないかと言われている。
 もしそうだとしたら。
 どうか彼らの最期にあったものが、救いではなく報いであったことを祈りたい。