樫木東林『スパンコールの女』

 会社を出てから独りで車を走らせていた筈なのに、いつの間にか後部座席に女を乗せている。夜遅くの残業は俺だけだったので同僚を送っているわけでもない。そもそも会社にあんな格好の人間はいない。バックミラーに写る女は俯き加減で顔は良く見えなかったが、真っ赤なスパンコールの衣装が目に痛い。どこの誰だか知らないし、どこで拾ったのかも記憶にない。そのくせ、女に請われた行き先だけは知っていて、そこに向かって俺はハンドルをきっている。たぶん東北だ。
 こんなおかしな状況にもかかわらず、不思議なことに俺の心はわくわくしていた。単調で終わりの見えない業務は、もう限界だったからだろう。女に危険を感じたら交番かコンビニにでも飛び込めば良い。俺は女に注意を払いながら、外の景色にも気を配った。それにしても静かだ。いつもは渋滞しているこの道に今日は一台も行き交う車を見かけない。それどころか人の姿さえも見かけない。かわりに影のような真っ黒の犬が無数にいて、歩道をカサカサ這いずり廻っている。犬ってあんな姿形だったろうか。
 大きな交差点で車を止めた。信号機には十二個も電灯が並んでいて、どうしたら良いのか判らない。迷っていると、横から女の腕がぬっと突き出て、進むべき道を指先で示した。手首には小豆大のホクロがあって、それを見た俺は、妙な安心感に包まれた。
 赤く大きな鳥居を抜けた先は児童公園になっていて、そこで道は行き止まりだった。車を降りて中に入っていくと、砂場を囲む枠の外に『おそれざん』と、子供の字で書かれたアイスクリームの棒が刺してあった。砂で作った小山には鉄製の小さな扉が付いていて、どこかで見た記憶があった。会社の屋上に繋がる扉だった。はっとして後ろを振り向くと、女が俺を見つめて泣いていた。さようなら、お母さん、と呟いて、俺は扉の向こうへと消えた。