坂巻京悟『猪鷹』

 岩手の西部に城の形をした成層火山がある。
 その麓では〈猪鷹〉と呼ばれる風神が崇拝されている。読み方は《イタカ》だが、《イダグァ》と濁って発音する年配者も少なくない。一説に拠ると、この表記は明治以降に発生した宛字であり、岩手出身の文学者が使い始めたものらしい。猪は地表を奔る風、鷹は高空を舞う風を表しているのだそうで、説明が如何にも滞りないため誤解されがちではあるが、ともかく初めに音ありきだったのだ。ここは議論の余地がない。
 山際の天候は癖が強く、変化が激しい。地元民も代々生活に苦労してきたという。地表と高空で逆方向の風が吹く時があり、それが頻繁に続く年は凶事が起こるとされた。判り易い記録では農作物の極端な不作である。また、精神に変調を来す者も目に見えて増加した。現代医学で言うところの双極性障害――躁鬱病の症状であったと推察されているが、これは疫学的な仮説に基づくものであって、山風との因果関係が立証されたわけではないことも併記しておく。
〈猪鷹〉は《途轍もなく大きな一個体》と《途轍もなく小さな無数の個体》という二つの属性で以て語られる。小さい方は人を狂わし、大きい方は星を狂わせるのだそうだ。細かく散った〈猪鷹〉の胞子は耳の穴から躰へ入り、人の心を思うがままに掻き乱していく。そうして持ち寄った人間性を燃やし、〈猪鷹〉は雲を纏う。天球上で輝く核が巨体の運動を統制する。世界各地の熱波や寒波は〈猪鷹〉の悪意に因るものだとされる。
 人と星とを繋ぐ神。地元民はそういう認識で〈猪鷹〉に接している。
 人と人との媒介物が言葉であるとするならば、人と星との媒介物が風であっても何らおかしくないのです――岩手花巻の異端的文学者はそのように書き残している。