宮ノ川 顕『鬼の手形』

 幼馴染のFとこの神社に来たのは、去年の夏のことである。彼の奥さんのU子が溺死して一年目の命日だった。子供の頃、ぼく達三人はよくここで遊んでいた。それでFはぼくを誘ったのだろう。
「あいつ、ひとりで海に行ったんだよ。俺が仕事ばかりしていたから」
 良く晴れた暑い日で、しきりに蝉が鳴いていた。あれほどU子のことが好きだったのに、結婚してしばらくすると関係は冷めてしまったのだとFはいった。
 境内の隅に大きな岩があり、鬼の手形だと伝えられる黒い染みが浮かんでいた。
「俺は、もう一度会いたいんだ」
 不思議な力を宿すというその染みに、Fは自分の手を重ねると、意を決したように目を閉じた。
 どのくらい時間が経っただろうか。やがて社の扉が開くような音がした。振り向いたFの視線の先に一匹のオニヤンマがいた。いや、参道の上をゆっくりと飛んで来たのは、オニヤンマなどではなかった。黄色と黒の縞模様に彩られた胴体の先にU子の顔があった。Fが彼女の名を呼んだ。ぼくは吸った息を吐くこともできず、長い髪が青白い頬に揺れるのを見詰めていた。瞳が力なく動き、赤い唇が薄く開かれた。しかし、U子は何もいわずに空の彼方へと消えた。
 Fが死んだのはそれから間もなくのことだった。事故か自殺かは分からない。海が見える崖の上から転落したのである。岩に砕かれた顔が、何故かトンボのように見えたと検視官はいった。
 あの日、ぼくとU子が一緒にいたことをFは知らない。小さな港の防波堤を突然高波が襲った。彼女を残して飲み物を買いに行った隙の出来事だった。漁船が救助に向かうのを見て、ぼくは卑怯にもその場を立ち去った。関係を知られるのが怖かったのだ。
 今年も残暑は厳しいけれど、木陰を渡る風は秋の気配を含んで涼しかった。今日はFの命日である。境内にオニヤンマの姿はない。ただ木漏れ日を浴びた鬼の手形が、ぼくを招くように黒々と揺れていた。