鬼井春明『みちのおく』

 道の奥に墓が在る。誰そ彼の太陽が深い紫に滲み、遠い何処かで女の喚き声が反響している。人の背丈ほどに伸びる名も知らぬ草が外套を撫で擦り鼻の奥に微かな甘みを齎す。髪の毛ほどの細い月が黒い空に架かっている。
 「一人参りする時は、こけしを一つ連れていきなさい」そう云って母がいつも私に手渡してくれたのは顔の無いこけしだった。顔が無いばかりか一切の装飾が施されておらず、玉と円筒を組み合わせただけの簡易な作りで、元は白木であったであろう木目も幾年幾人の時間と手汗を舐めて飴色の光沢を放ち有機的なぬめりを帯びている。ぬめりを手の平で確かめ乍ら妻と娘の死んだ日のことを想う。
 黒い天の隙間の空から眼眸の如き月が覗いている。草は一層に高い。こけしは手の中でわたしの体温を吸い、蠕動している。その中に蚕の幼虫がみっしりと詰まっていずれは木目の隙間から零れ出すのではないかと要らぬ想像をする。厭だ。気味が悪い。放したい。離せない。離れない。
 草は更に高く深く、迷廊として往く手を導く。精確にその道の奥へと誘われている。手の中のこけしは身を捩るように蠢き、それがとても心地佳く感じるようになった。視界が無い。もはや甘い匂いの闇に歩を進めているばかりになった。冥い道の奥には墓が在る。
 墓だ。わたしは一人で墓へ参る道中なのだ。誰にも知らせずに出てきたのは後ろ暗いことが有るからだろうか。共に行く家族が無いからだろうか。何より誰の墓に参ろうとしているのだろう。丈高き叢の奥に誰の墓が在るというのだろう。このこけしは何の為に連れてきたのだろう。云われるが儘にそういうものだと思い込んできたが突如として判らなくなった。何も果にも判らなくなった。
 そして爪先で自らの亡骸を強かに蹴った。紛うこと無き自分自身から竈馬の撥ねる乾いた音がした。こけしは身を捩り手から弾んで土に落ちると短く女の声でひとつ鳴き、亡骸に這入っていった。