畦ノ 陽『被写体の説明』

 単独キャンプにのめり込んだのは遭難しかけてからだったらしい。散々彷徨ったあげく、見付けたのは昔の診療所のような建物だった。木枠に嵌まる窓ガラスは不均一な厚さで、背後の森をまだらに写し、風が山肌を縫えば柱は軋んでトトトッと何かが揺れる。全壊こそ免れていたが、所々屋根が落ちて割れたセメント瓦が散乱していた。不穏ではあるが、目算で30年は経ていそうであるのに、反り返った床板には消毒薬
の匂いが漂い、少しばかり安堵したという。
 診察室の窓に近づくと夕刻の森がすぐ間際に見えた。カンテラに火をともし、傾いだ窓を押し開けると山の気配が満ちた。それでも消毒液の香りは室内にとどまり、淀んでいる。カメラを握りしめて窓を乗り越え建物を見渡しそうとした時、後ろからトトトッと音がして見ると窓が閉まっていた。
 歪んだガラス越し、診察台に置いたカンテラの向こうに着物姿の男の子が立っている。男の子は、薄っすら笑った次にカンテラをひっつかまえて出て行ってしまった。刹那、カメラのシャッターを切る。不意ではあるが仕損じることもなかった。診療所の中からは、トトトッ、トトトッとあちらこちらで響き、カンテラの光が行ったり来たりした。
 何の気もなく玄関に回って、思わず足を止めた。老婆が二人、観音開きの玄関の前、据え付けられた長椅子に座っていた。いわゆる病気自慢だろうか。あちこち触っては難しい顔をしたあと、二人でほのぼのと笑っている。軽く会釈をして玄関を抜けたが、突然足の下、それも地面のずっと奥からグググググっと地鳴りがし始めた。立っていられない程だったが、振り返えると二人の老婆は難儀そうに立ち上がって行ってしまった。獣道を進むように灌木に入り込んで森に消えた。
 地鳴りが納まり診察室に戻ると、すでに鋭い夜気が満ちていた。窓が開いている。カンテラは置いた通りにそのままだった。