料理男『温泉宿の奇祭にて』

 農村によくある陽根信仰。たまたま泊まった岩手の旅館では、毎年祭が行われていた。男性のシンボルを模したご神体を担ぎ、子孫繁栄、安産を祈願する。この日を待ち望んでいた人々の念があまりに強すぎるのか、旅館は姿を一変させた。
 ぺたぺたとスリッパの音が廊下から響くのは、旅館が古いからに他ならない。隣からテレビの声が漏れ聞こえてくるのも同様。
 では、たえず部屋の中を赤ん坊が這いずり回っているような、この音は何だ?
 布団に入ると、私が男性であるのにも構わず、乳首を求めてまさぐってくる小さな手の感触は何だ?
 不気味な緊張の連続で、心はもとより体をを休めることもままならず、私は旅館自慢の温泉へと逃げ出す。深夜でも誰かしら入っていると他の客から聞いたが、幸いにして独り占めすることが出来た。湯船の波紋が静まると、壁のすぐ向こうを流れる川の音だけが耳を洗う。時折天井から垂れる滴の音も、心地良い静寂の邪魔にはならなかった。
 肌にぬるりと馴染む湯に身を委ねているうちに、私はうとうとしていたらしい。ふと気付くと体のあちこちに、一見すると紅葉のような痣が浮かんでいた。腕といわず足といわず、このぶんだと顔にも、きっと。
 そそくさと大浴場を出て、おそるおそる部屋へと戻る。幸いなことに、這いずり回るような音もまさぐる感触も、その後一度も出ることなく朝を迎えられた。肌には痣の一つも無く、四十男にはもったいないほど、温泉効果でツルツルスベスベだ。
 チェックアウトする際、従業員から「よく眠れましたか」と訊かれた。昨日宿泊した客は、私以外全て夫婦だったのだそうだ。
 もしかしたら昨夜の出来事は、独り者だけが体験するのだろうか?来年確かめたいような、確かめるのが癪なような……