烏鷺ボロス『魚』

子供の頃、家族で青森を旅行した。しかし、青森のどこだったのか、記憶が定かではない。
老いた父母に質しても、「さぁな、忘れたな。お前どうだね」、「そうねぇ。山の方だったかしらねぇ」と心許ない。無論、小学生だった私が覚えているはずもない。
なぜ気にするのか。それにはちょっと訳がある。
先週の金曜日のことだ。職場の仲間と美味い魚を出すと評判の居酒屋に行った。突き出しの糸蒟蒻と鱈子の和え物をつまんでいると、自然に隣の席の会話が耳に入って来た。
「変な話をしてもいいか。こんな馬鹿げた話はあんたにしかできないからさ」
 見ると、初老の男が二人向き合って飲んでいた。
「三十年も前の話だよ。その頃俺は今の女房も子供も居たんだけどよ、女にノボセちまってさ。そしたらその女が旅行に行きたいって言い出したのさ」
「へぇ、行ったのか」
「行ったさ。青森だよ。女の生まれ故郷だったのさ。随分と奥の方なんで、もう親戚も誰も住んでいないんだが、幼い頃に遊んだ場所がどうなったか見たいってさ」
「で、どんなとこだったんだ」
「沼があってさ。濁った深緑の水の中に、鯉よりもずっとでかい魚がうようよ居たよ」
「ほう」
「沼の岸辺に旅館があってな、そこに泊まったんだ。そしたら、女が真夜中に俺を起こすんだよ。これから沼に行こうってさ」
「穏やかじゃないな。で、どうした」
「行ったさ。暫く魚を見てたな。並んでさ。したら、急に虚しい妙な気持になってさ、二人で沼に飛び込んじまったのさ。ほんの少しの間苦しかったが、あとはそれほどでもなかったよ。死ぬって簡単だと思ったら、俺さ、気付いたら魚になってたんだよ。女もだよ」
 私は思い出した。小学生だった私は夜中に目覚めて、旅館の窓から沼を見ていたのだ。夢だと思っていた事は現実だった。
 男に声を掛けようとした時、遅れて到着した職場の同僚に肩を叩かれた。再び、隣の席に目をやると、彼らの姿はどこにも無かった。