高山あつひこ『こ』

これは、しるしなのだ。
ある日、井戸のつるべの桶に、まっ赤な落ち葉が浮かんでいるのを見た時、気づいた。紅葉が水面をくるくると回り出す。
「こ」
 あの人の声がした気がした。里では紅葉は始まっていない。山奥から誰かが送ってきたのだ。勿論それは風かもしれないけれど。
 その次は、一握りほどの団栗が小屋の前に置いてあった。何か模様を描いていたようなのだが、気づいた時には蹴飛ばしていた。見たこともない真っ赤な茸が、畑の隅の木の根本に生えていたこともある。てのひらにのせて傘にある白い斑点に見入っていたら、夫が毒茸だとわめいて踏みつぶしてしまった。奇妙な縞模様の小石や 、組み合わされた小枝が、曲がり角に置いてある。そんなしるしが、どんどん増えていった。
「こ」
 そうあの人は言ったのだ。私が山道で泣いていた時。いつの間にかあの人達が遠くから囲むようにして、私を見ていた。夫の後を付け、隣村の女の所へ行くのを見たのだ。情けなくて大声で叫びたて、泣いていた。
「こ」
 あの人は言ってくれたけれど、私は村へ、赤ん坊の許へと戻っていった。
 しるしがない日には、私はそっと裏山に行き、あの人達の仲間のつもりになって木に登り、果物をもいで、皮を剥かぬまま囓ってみたりした。苦くて薬のようで、木の枝の先から遠くへ飛んで行けそうな味がした。
 今朝、籠の中に栗の毬が入っているのを見つけた。私は着物を裂いて、籠の横に絡み付けた。これを山の中に置いておけば、村のみんなは、私が熊に襲われたと思うだろう。赤ん坊をしっかり背中に括り付けたら、山の中に駈けていこう。待っててね、姉さんたち。
「こ。こっちゃ来う」
 山が呼んでいる。二度と帰ってはこない。