沼利 鴻『水芭蕉』

私が小学三年か四年の春の事です。
マユという、とても綺麗な女子が転入してきました。マユという名前がどのような漢字であったかは忘れました。どこか難しく美しい字面で、先生が黒板に書いた字を私は読めなかったことを記憶しています。マユは弱弱しくみんなの前で名乗りました。名の響き、か細い声に私は淡い恋心のようなものを覚えました。それは他の男子も同じ気持のようでした。積極的な者は、早速声を掛けています。他に、声を掛けられず悶々としている者がいます。私もそのうちの一人です。一言でいいから、マユと言葉を交わしたいと思いました。けれど、内気な私にはとてもそんな勇気はなかったのです。
マユは大勢の男子に囲まれて、女子からは完全に孤立していました。今にして思えば、異常なほどに男子が言い寄りました。最初は気後れして声を掛けられずにいた男子も、数日のうちには我慢することができずにマユに接触していきました。やがて、マユを廻り学校内の序列が段々に崩れ、喧嘩が多くなり、混沌とした様相を呈してきました。学年も腕力も知性も話術も関係ありません。ひたすら、奪い合いです。
その中で、私だけが未だに声を掛けられずにいるのでした。はち切れんばかりの想いを鎮めようと、私は学校裏の水芭蕉の群生地に一人行きました。先生には、立入る事を強く禁止されていましたが、私は水芭蕉の花が好きでした。
花はちょうど盛りでした。
その咲き乱れる水芭蕉の花に囲まれ、マユが立っています。
長い黒髪がさらさらと風に流されています。
裸でした。
一糸纏わぬその姿は、白く美しく可憐でした。私が茫然と眺めていると、マユはそれに気付き、僅かに微笑しました。そして、全てを晒したまま群生地の奥へと消えて行きました。
次の日、マユは突然転校することになりました。
最後の挨拶もなかったと記憶しています。
その日教室の窓を開けると、風がとても暖かだったのも憶えています。