松 音戸子『ハチの遠吠え』

 秋田犬のハチ公が走っている。待つことで有名だった忠犬。今はまっすぐに走り続けている。
境界を超えた時、懐かしい手に触れられると思ったが、違った。
ご主人様の魂はどこにある?
森を抜け海を駆け空を行く。時をさかのぼりひるがえる。フタバスズキリュウ三葉虫アンモナイト、生き物たちの祝祭を横目に進む。
博物館を無数の意識ごと飲み込んで消化していくように世界をまさぐる。素粒子の隙間、銀河群のまっただ中、ミクロとボイドの水たまりに滑り込む。
 
 生きていた時の忍耐強さそのままに、遠く遠く進んでいく。
奪われるように突然消えてしまう命、もう一度会いたいと膨れ上がる心。どうして、どうして、と繰り返しながら、秘密を知るために脚を動かす。
 
舞い散る雪の中、闇に犬の顔がぼんやり浮かぶ夜がある。遠吠えは地上に住む人間に向け発せられている。今度は俺を待っていてくれと。長くかかるかもしれないがいつか解き明かし戻ってくるから、俺がそうしたように、不在を悲しみではなく従順な希望としてわくわく待っていてくれ、と。