葦原崇貴『うらめ』

 亘理の工場で働く友人N君から聞いた話。
 あの揺れでは幸い人的被害もなく、従業員は工場の表に集まり、工場長の指示待ちとなった。停電となって仕事ができず、また家のことも心配なので、一刻も早く退勤したいというのが全員の心情だった。
 しかし工場長はいったん事務所に引っこんだまま、待てど暮らせど出てこない。ようやく出てきたかと思えば、誰の目にも顔面蒼白に見えた。かといって何があったのか訊く機会もないまま、帰宅の許可が出て、いっせいに解散となった。
 長の判断が鈍ったせいでだいぶ遅くなったことを少し恨めしく思いながらも、N君は車を運転し、阿武隈川を越えて仙台への帰路に就こうとしていた。
 しかし、道路の向こうから、何台もの自動車と、大勢の慌てた様子の人たちがやってくるのが見え、「津波だ! 早く逃げろ!」の声に、慌てて車をUターンさせた。
「……川を越えたあとは、ずっと平地を北上するルートなんだよね。だからもし、もうちょっと帰るのが早かったら、まともに横から波に呑まれてたと思う」
 何事も、特に災害時の判断は迅速に、って言うけど、こういうこともあるんだね、
とN君はしみじみと語った。
 ところで、なんで工場長はそんなに顔色が悪かったんだろう、と訊くと、
「それが不思議な話なんだけどね、地震が来た瞬間、数年前に亡くなった工場長の奥さんから、携帯にメールが届いたっていうんだ」
 奥さんのアドレスから、件名も本文もない空メールが。だから冷静で迅速な指示出しができなかった。奥さんが守ってくれたのか。
「いや、その奥さんっていうのが、工場長の酒癖と博打で相当苦労したあげく死んだらしくてね、かなり恨んでたみたいだよ」
 最後に工場長が避難した直後、工場は津波に沈んだという。