佐原淘『がれきの中の猫』

 夜、がれき達が泣き叫んでいる。その声を聞けるのは猫だけだ。人間達は知らないが、猫は「物」の声を聞く事ができる。
 潰れた自動車が、梁の木っ端が、子供の自転車が、乳児のよだれかけの紐が、なぜ自分はご主人を守れなかったのか、と自責の念で狂わんばかりの泣き声をあげている。だが餓死が目前に迫った猫にはうるさいだけだ。猫は利己的な動物である。自分の命しか考えない。猫にとって飼い主は、ただの召使いのようなものだ。いない召使いが今どうしている
かなど何の興味も無い。
 津波の時、家の中にいた猫は、ひしゃげた家が開けてくれた建材の隙間から屋根に逃げた。そして「屋根から離れろ」という瓦達の声のままに浮いている物の間を飛んで逃げた。水が引いて生き残って数日、がれきの町は凍てつく夜を迎え、猫はうずくまり動けなくなっていた。その時声がした。がれき達とは違う声だ。
「私をお食べ」と呼んでいる。それは老女の遺体だった。猫は生きている人間の喋る言葉は全く理解できなかったが、遺体の言う事は分かった。「お食べ、私の体がお前の命に役立つならこんな嬉しい事は無い」
 老女の遺体は不思議な光を放っているように見えた。猫は力を振り絞り、その肉に喰らいつこうと立ち上がった。
「待て」また別の声がした。離れたところで消防団の服を着た遺体が呼んでいる。「その人には家族がいる。もし喰われた遺体を見たら家族が悲しがる。俺は身寄りが居ない。まず俺を喰え」猫は消防団員を貪った。血肉とともに彼の記憶が流れ込んで来た。彼は30年前、妻と2歳の息子を事故で亡くしていた。そして津波の迫る中、避難を呼びかけ駆け回り、自分の命を他人のために投げ出した事を知った。なぜそんな事をしたのか猫には理解出来ない。しかし猫は何かの暖かい輝きに自分の命が照らされているのを感じていた。