古屋賢一『輪辻ひなの伝記』

 駆けつけたらすでに命を機械に預けた状態で、もう母は助からないのだとわたしは覚悟しました。しかし六日後に目を覚ますと主治医も驚くほどの回復力を見せ、まだ早いってひなばあちゃんに叱られた、と掠れる声で泣くみたいに笑いました。ひなばあちゃんというのはわたしの曾祖母です。
 大津波で両親や祖父母、友人らを失ったとき曾祖母は八歳でした。遠い親戚を頼って移り住みましたが、高校卒業と同時に一人暮らしを始め、グルメレポーターの仕事で偶然に再会した幼なじみと結婚、調理師免許を取得し、双子を産み、三十九歳で故郷へ戻って、洋食屋を切り盛りしながら三人の孫を可愛がりました。厨房に立つことはわたしが生まれる以前になくなっていたものの、食事は大事、長生きしたらいいことある、が口癖で、五人の曾孫が集まった際には必ずごちそうを作ってくれました。曾祖母のハンバーグはわたしの大好物でした。レシピ通りに作っても誰も同じ味を出せないのです。
 一昨年、百五十七歳で他界するまで大病を患うこともなく、朝からカレーを食べるくらい元気でしたが、さすがに最期の数週間は入院を余儀なくされました。二人きりの病室で、誰にともなく、思い出すように、確認するように、空気清浄機の作動音に負けそうな声で曾祖母は呟きました。親より若く死ぬのは、親不孝って言ってたのに、パパも、ママも、親不孝め、許せない、じいちゃんも、ばあちゃんも、そんな若いままで、ずるい、私ばっかり年寄りになって、私より若く、誰も、死ぬことを許さない……。いつもの穏やかな口調でしたが、ずいぶん意識が混濁しているのかもしれないと感じました。
 母が曾祖母に会ったのも意識の混濁のせいでしょう。でも、四年前の、恐山で霊力発電所が稼働を始めたと聞いた曾祖母の喜びようを、わたしは忘れることができません。