百石秋堂『お盆』

 ぬた、と盆の夜の海は、粘りつくように暗い埠頭の岸壁にあたった。
八戸には珍しい、風のない熱帯夜である。
 男は港に来ている。蒸し返る街中よりはましだろうとの期待は全く裏切られた。いつもなら吹いているはずの沖からの風が止んだ港は、潮気を帯びてべとべとと暑く、海は自らの意思を持ったかのようにゆっくりとうねり、暗い埠頭のどこかに、ぬた、とあたった。
 海の匂いがきついな、と男は思った。ぽちょん、と水面のどこかで音がした。音のした方へ眼を向けてみても、辺りは曖昧に暗く、うねる海の気配が感じられるばかりだ。
 それにしても、なんと息苦しい夜であろうか。港は空気の対流をやめてしまったようで、じっとりと停滞した空気が周囲を満たし、時折の海の音以外、異様なまでに静かである。ぽちょんとまた聞こえた。
 重苦しさから逃れようと遠くへ眼をやれば、突堤の先はのっぺりと闇で、男は自分のまわりを残して世界が消失してしまったような錯覚に襲われた。不安になって振り返ると、そこは巨大な水産食品加工工場で、すり身にされた魚の怨念が充満しているのか、夜中の無人の工場は異様な圧迫感を発している。押し返されるように海へ向き直ると、ぽちょんと水面が鳴った。
 さっきから何が鳴っているのだろうか。
「お盆の海には近寄ってはいけないよ」
 男は突然、幼い頃の祖母の言葉を思い出した。ぽちょん、ぽちょんとあちこちから音がし始める。何故、祖母は海へ行くなと言ったのだったか。ぽちょ、ぽちょん、ぽちょ、音はいよいよ増えていく。ぽちょん、ぽちょ、ぽちょぽちょんぽちょんぽちょぽちょぽぽぽぽ・・・・・・。
「お盆の海には手が出るからね」
 ああそうだった。暗い海面を凝視すると、ゆらゆら揺れる一面の手を見てしまいそうで、男は固く目を閉じ、水面から伝わる低いざわめきを聞いていた。