灰島慎二『黒金と白』

昭和最後の夏。
宮城に住む男が、銀塩一眼レフカメラを手に入れた。早速試し撮りをしようと、山形に向かって車を走らせた。峠を通るルートである。
狭い山道を、酷く曲がりくねったカーブに沿って上っていく。いたる所でガードレールが凹み、ねじ曲がっている。気圧の変化に耳が詰まり、何度も唾を飲み込んでいる内に、もやをまとう山々が右手に姿を現した。
頂上付近にわずかなスペースを見つけ、車を停めた。カメラを手に外へ出ると、標高のためか八月だというのに肌寒い。男は足にまとわりつく霧を払い、絶景に望遠レンズを向けた。
と、不意に強烈な視線を感じた。誰かにじっと見られている気がする。しかし、ファインダーから目を離し、辺りを見渡したところで誰もいない。濃い霧と濃い緑だけが、ただただ広がっているばかりである。
男は再びカメラを構えた。
もやの向こうに巨大な鉄塔を捉えた。それは山深い傾斜に立ち、まるで鉄でできた巨人のようにも見える。少しずつ上に目をやる。鉄骨の端に大きな鳥が止まっている。突き出た部位から電線が伸びている。そして、先端部に渡された鉄骨の上に素っ裸の女が立ち、こちらを凝視している。ふやけたような白い肌にたくさんのみみず腫れが浮かんでいる。
目が合った。と、女の顔が崩れるように歪んだ。
思わずシャッターを切り、男は一目散に峠を下った。
後日、撮り終えたフィルムを現像し、件の写真を確認した。
写真の右半分いっぱいに、ピントのぼやけた目と眉のアップが写っていた。レンズの目の前に被写体がない限り、撮れない画だった。どうしたわけか、それがあの女で、笑っているのだと判った。
買ったばかりのカメラはすぐに売り払われた。どうにも、ファインダーを覘く度に、誰かと見つめ合っている気がしてならなかったのだ、という。