灰島慎二『おしゃぶり』

少年は、黒い海に多くの宝物を奪われた。楽天イーグルスの投手に貰ったサインボール、住み慣れた木造の家、そして一月に生まれたばかりの弟。少年は笑わなくなった。避難所に芸能人が来た時も、小学校で友達と再会した時も、仮設住宅に家族三人で移り住んだ時も、少年は心の底から笑えなかった。
七月のことだった。少年は、ふと弟のおしゃぶりのことを思い出した。弟が生まれてから、母は自分に構ってくれなくなった。少年は無償に意地悪な気持ちになり、おしゃぶりを縁の下に隠したのだ。勿論すぐに母が飛んできて、泣き叫ぶ弟を寝かしつけた。その時はなんだか悔しかったが、今となっては後悔していた。もっと優しくしてあげればよかった、と。
翌日、おしゃぶりを探しに前の住所に向かった。乾燥したヘドロの粉が想い出の風景を汚していた。
かつて自宅だった地に着くと、和服姿の男が竹ぼうきで地面を掃いていた。
「何してるの?」
声を掛けたが、男はにこにこするばかりで何も答えない。
「ここ僕の家だったんだ」
男は微笑んでいる。
「でも流された」
男は笑みを浮かべたままだ。
「何で笑ってるんだよ。フキンシンだぞ」
掴みかかっても、男は笑い続けた。
結局、おしゃぶりは見つからなかった。
九月。少年は両親と街に出た。服と靴を買い、帰りに母の好きな和菓子屋に寄った。店内の壁に一枚の古写真が飾られていた。写っているのはあの日の男だった。
「誰?」
父に訊くと、仙台四朗といって、昔実在した福の神なのだという。四朗はいつも笑っていて、立ち寄った店は繁盛し、抱かれた赤子は元気に育った。笑う門には福来る――やがて人々は、四朗の写真を縁起物として飾るようになったのだそうだ。
 少年は気づいた。四朗は可笑しくて笑っていたんじゃない。悲しいから笑っていたのだ。
 写真の中の四朗が微かに動いたように見えた。途端に、足元に何かが転げ落ちた。
弟のおしゃぶりだった。
少年は半年ぶりに心の底から笑った。