多麻乃 美須々『盛岡浄水場には・・・』

 今日は寒いなぁ。町中が灰色に凍えて、今にもパリンと裂けそうだ。張り裂けてバラバラになればいい。
 たばこの栽培を巡って喧嘩して、故郷の遠野を追われ、どうにか盛岡に辿り着いた。あの日、この喫茶店のドアを開け、倒れ込むように入ったのも寒い冬の夕方だった。雨でずぶ濡れの僕をマスターは優しく迎え入れてくれた。そっとだしてくれたのがマンデリンだ。あの温かさ、涙が止まらなかった。
 あれから十年。やっと見つけた浄水場の仕事にもどうにか慣れた。川から引き込んだ水には、金ピカの仏像の群れや何百枚ものお札なんかが流れてくるのは珍しくない。一番驚いたのは首なしのぶよぶよの人の死体だ。むくんだ腹を触ってしまった時は、吐き気が止まらなかったものだ。そんな仕事にもやっと慣れた。汚物もくれば、きれいな花びらも流れてくるのさ。
 それにしても、もう十年か。この窓ガラスに映る老いた顔。仲間に裏切られ、生まれて育った土地を去るのは辛かった。少しは賑やかなこの町に身を隠すように暮らし、そして、気づいたら老人だ。ああ、うんざりだ。この目尻の深いシワ。濁った眼。カサカサになった額のウロコ。黄ばんだクチバシ。背のコオラは傷だらけ。薄汚い人間共のゴミをすくって、水カキもヒビだらけ。思わず、悲しくて悔しくて両手で顔を覆った。すると、頬のウロコがパラパラとテーブルに落ちた。僕はそれを床に払い落とし、じっと眼を閉じた。
「サダオさん、ほら」はっと眼を開けると、マスターが毛糸の帽子を脱いだ。お皿だ。
「僕も、ウロコが落ち、クチバシが崩れ、人間みたいになったんだ。でも、ここだけはね」マスターは微笑みながら頭を叩いた。
「人間なんかにはなりたくないよ。意地張らないで、遠野に帰りな。みんな待ってるよ」
ランタンの明かりに浮かんだ、マスターの口元はいつもより少し尖って見えた。