杉澤京子『よくもきた』

 父の転勤で、磐城塙に住んだ時のことだ。
 戦前からある二軒長屋の駅の官舎は古い家だったが、駅の隣で電車通学には便利で大変気に入った。改札正面には小高い山があり長い石段の先の赤い鳥居を眺めるのが好きだった。しかし、水が合わなかったのか体調を崩して学校を休みがちとなり、昼間独りきりで家に居る時間が多かった。

 「ズルズル、ズルズル」 何者かが天井裏を這い擦り廻っているのだろうか。屋敷蛇でも住み着いているのかも知れないと、熱っぽい頭で思った。恐さより、隣家と屋根裏が続いているのだと妙に納得して聞いていた。
 恐がりの家族には内緒にしているうちに物音は段々大きくなって来たので、ある日思い切って天井板を一枚ずらして覗いて見た。
 暗闇にいたのは蛇ではなく、赤く光る目の大きな蜘蛛と、黒髪を垂らした雛人形が座って見えた。朱色の袴と白い着物は三人官女の一人なのだろうか。慌てて板を戻し、家族には黙ったままで毎日を過ごしていた。
 真夜中の駅は何本かの貨物列車が通過するだけなので、駅前広場は静寂になる。人気のない広場の公衆電話 から夜中、ベルの鳴る音が時々聞こえてくるのに気付くようになり、その毎に窓から眺めるのだが、人影は見当たらず、不思議に思っていた。
 ある夜、寝つかれず外に出てみた。広場の電話ボックスが薄明るく浮んで見えた。その時ベルが鳴り出したので、中に入って受話器を耳に当ててみると、女の声がした。
──よくもきた、よくもきた──
 ガラス越しから雛人形が覗いていた。家に戻っても、耳の奥底で声は続いていた。
 やがて春になり、父の新たな赴任先に住まいを変えると声は止んだ。今でもあの町の出来事を思い出すと、背筋が寒くなるのだ。