ジャパコミ『カッパ担当者』

 沼の縁、不安定な草むらの上に、ワラで作った小さな馬の形代をそっと立てる。鉄製のフェンスを閉じて観察棟に駆け戻り、緊張した面持ちの見学者たちと、しばし待つ。
 ぽちゃり、水面が波打った。魂切るようないななきが聞こえたかと思うと、ぬめり光る赤い手が次々とのび、葦毛の巨体を沼へ引きずり込む。鼻息荒く抵抗しているそれは、もはやワラの形代ではない。鉤爪に裂かれ鮮血をまき散らす姿は、完全に生身の馬に変じている。妖怪が持つ現実改変能力に頼った代用品だ。さすがに生きた馬を餌にはできない。
「どうです、『緑』とはわけが違うでしょう」と、俺が聞いても返事はない。声を失っている見学者たちは、みな遠野市内にいくつかある、公開の「河童淵」の管理担当者だ。
 保護区の外で飼われているカッパは、すべて八〇年代に移入された北関東原産種である。赤ら顔の遠野固有種と違い、皮膚は緑色で、そして人畜無害。野生種でもせいぜいキュウリの食害をもたらす程度だ。かつて利根川流域を荒らしまわった獰猛なカッパの後裔のはずだが、先祖が人間に敗れ交わした契約を律儀に守っているのか、とにかくおとなしい。
「やってみせますよ。できなきゃ立場がない」
 および腰の男たちの中、どうにか返答できたのは市営施設の担当者だけだった。世界遺産登録が早々に決まったこの早池峰国定公園妖怪保護区と違い、平野部の施設は国、つまり俺たち文化省が推薦自体を取りやめている。そして、追加登録へのハードルの一つとして「固有種の活動環境の整備」を求めたのだ。
 激しい水音が止み、代わって見学者のざわめきが狭い観察棟に満ちた。カッパたちが水面から顔を出し、こちらをじっと見つめていた。心配ない、埋設している刀のおかげで連中はフェンスに近づくこともできないと、一同を落ち着かせる。獲物の返り血で鮮やかに照りかえるカッパたちの赤ら顔には、満たされぬ飢えが、ありありと、見てとれた。