青葉順『また、明日』

 時を時計が刻む。カッチカッチとあちこちから秒針の音がする。仮設住宅の間取りは八畳二間に二畳の台所と風呂トイレ。この家の中に少なくとも時計は五個あるはずだ。腕時計、掛け時計、目覚まし時計。どれも時刻を合わせていない。今何時なのか知りたくない。目は覚めたが起きる気はない。微睡の中で波の音を聴いた。しかし、布団の中では時の流れる音だけがむなしく響く。隣の真之君の声がした。仮設住宅の壁は薄い。と思ったら、半畳もない玄関に男が立っていた。寝巻のまま起き上がる。男が言った。「すみません、ライターかしてください」外は雨が降っているせいか、男はフードを深くかぶり全身ずぶ濡れ。あーライターちょっと待って下さい。確か子供たちの寝ている部屋の段ボールに防災用品と一緒に、あ、ありました。戻ると男はいなかった。起きてきた長男に話すと怒られた。そういう時はうちにはないって言わないと不審者だったらどうするんだよ。それもそうね、鍵かけて寝たはずだったんだけど。ほんとに不用心だな。でもね、お父さんタバコ好きだったし、という言葉は飲み込んだ。正宗はタバコが好きだった。深沼海岸行きのバスの中で声をかけられた。「ライター持ってませんか」タバコ吸わないのでと首を振ると「はい」と言った。なぜ、「はい」なのか不思議に思ったが、よく同じバスで見かけてなんとなく付き合いだしてからも聞かなかった。聞き損なった。次の日も雨だった。雨の音なのか波の音なのか、布団の中で耳を澄ますと、男の声がする。「すみません、ライターかしてください」あぁ、昨日の、ちょっと待って下さい。その辺の引き出しに、あ、ありました、どうぞ。振り返ると男はいなかった。その次の日も、そのまた次の日も男は来なかった。それでも、また、明日、男が来たらその時は、タバコ吸わないのでと言うためにライターを握りしめて眠る。