田磨香『田中さんは零戦になって』

 私の祖父は、戦争経験者である。十九歳で徴兵され、満州へと送り込まれた。もちろん恐くもあったが、当時は血気盛んな若者である。こうなったらやってやるぞと、覚悟を決めて行ったという。
 しかし幸いにも、割り当てられた役目は整備兵であった。手柄のひとつも立ててやろうと意気込んでいただけに、最初は肩透かしにあった気もしたが、すぐにホッと胸を撫で下ろし、我が身の幸運に感謝したという。同僚となった他の人たちも皆、口にこそ出さないが、同じように思っていたらしい。
 今日では、「お国のために」と洗脳され、などと実しやかに言われるが、実情はそんなものである。そこまで馬鹿ばっかりのわけがあるか、と祖父は少々、不満そうだ。
 しかし、ただ一人。田中さんという人だけは、整備兵にされたことをひどく悔やんでいたらしい。俺はパイロットになりたかった、零戦に乗りたかったと、祖父や戦友たちに何度も何度も、切実な声で語ったという。
 その田中さんは、終戦後、再び日本の土を踏むことなく亡くなった。祖父の部隊はそのまま満州終戦を迎えたあと拘留され、ようやく帰ることが出来たのは、七年後だった。
 この間に、寒さと飢えで、たくさん死んだという。田中さんも、その一人だった。いつ頃亡くなられたのか正確に覚えていないのはそのためだ。戦時中より遥かに辛かったと、祖父は未だに、時おり悲しそうな顔をする。
 戦友の人たちとの同窓会は、今でも三年に一度、続いている。その集まりが、田中さんの故郷である岩手で行われたときのことだ。
 ふと見上げた空に、零戦が、飛んでいたというのだ。田中さんだと、思ったという。
 そうか。あいつは別に、パイロットとか零戦に乗りたかったとかじゃなくて――。
 自分の手で、守りたかっただけなんだ、と。少し迷ったが、敬礼をして、帰ってきたという。