大河原朗『犬』

 犬の面倒をみてもらえないか、と隣家から申し入れがあった。大丈夫ですから早く行ってあげてください、とあるだけの毛布や食糧、ガソリンのRV車への積み込みを手伝う。犬も事情を察したのか、小屋の前で項垂れている。近所総出で見送る形となったが、かける言葉は誰も出てこない。
 隣家の奥さんは遠く岩手出身だった。両親の住む地域が津波に流されたらしい。連絡もとれず、安否がわからないという。
 夫婦には子どもがまだない。毛づやの良い柴犬を可愛がり、毎日、夕方になると散歩させていた。慌ただしさで無理もない、犬の餌を置いていかなかった。だから、申し訳ないと思いつつも、我が家の食事の残りを餌皿に盛って与えた。そんなものでも、尻尾を振りながら、皿を空っぽにしてくれた。
 三日経ってもRV車の姿はない。暗いままの家屋を横目に犬小屋へ近づくと、これまでより一層激しく尻尾を振ってくれている。よくなついてくれたな――と思ったのだが、違う、犬はこちらをまるで気にしていない。明かりのない玄関ポーチに向かい、後ろ足をぴんと張り、興奮気味に舌を出したまま、呼吸の音まで聞こえてくる。何か、いや、誰かいるのか。そのうち犬は、くぅんくぅん、と媚びるような声で鳴き始めた。山盛りの餌皿には目もくれない。おい、犬、犬、とじつは名前を知らないのだが、何度呼びかけても無視されてしまった。
 翌朝、隣家を覗いてはっとした。なぜこうなったのか、雨は降っていないのに、玄関へ続くアプローチが泥だらけなのだ。奇妙なことに、門より外の道路にはそんな形跡がない。さらに犬を見て言葉を失う。昨日までの毛づやは見る影もなく、とくに頭から背中にかけて、泥だらけだった。まるで誰かに――いや、確証のないことは口にすべきではない。
 こんな出来事を、悲しみに沈む夫婦に話せるわけもなく、今まで胸にしまっていた。