沙木とも子『遠めがね」』

 晩春、祖母の遺言を果たしに向かった先は根雪の残る北の地だった。山間を縫うように走る道は細く昏く、行けども行けども果てがない。闇雲な不安に襲われかけた頃、急に視界が開けた。前方、四方を山に囲われた窪地に、小さな集落らしきものが遠望できた。
 日が暮れる間際、辿り着いたのは黒くうっそり沈んだ無人の屋敷だった。少年の頃、空想で描いた家によく似ていた。否、そのものだった。玄関脇の二つの円窓は、たしか後からマジックでふざけ半分描き足したのだ。
 家内の空気はふしぎに晴朗だった。襖を悉く開け放し、一番奥まった座敷の床の間に、私は大事に携えてきた祖母の義眼を置いた。
 ばあちゃんの遠めがね。孤児の私を育ててくれた祖母は、遠くのもの、或いは近い未来に起こる事を驚くほど精確に言い当てた。どうしてわかるの、と問うと、この眼は実は借りもんでなぁ、と動かぬ左眼を指して笑った。童の頃、一番の遊び相手と左眼を取り替えっこすたんさ、飽いたら返す約束で。
 坊、代りに返しにいってくれんかのう。臨終の床で、私の手を握って祖母は乞うた。このままでは約束ば違えるこつなる、と。
 その夜は座敷の隅で寝袋に包まり、まんじりともせず明かした。屋敷内は息詰まるほど静まり返り、恐れていた怪現象の類いは生じなかった。ただ夜のあいだ中、暗がりから誰かに凝っと見詰められている気配があった。
 朝になっても義眼は変らず在った。弄られたり摩り替えられた様子もない。置いてもおけず、形見の巾着に入れ直して懐に納めた。
 その帰途――私は高速道路で玉突き事故に巻込まれ、九死に一生を得た。眼球の飛んだ左の眼窩に、懐の義眼が誂えた如く嵌った。
 宿主が代わっても遠めがねは健在だった。己の未来に限って靄掛かるのは、大方小心な孫息子への祖母の最後の気遣いか。遊び相手とやらが新しい左眼に飽いた時――たぶん、私のおまけの寿命も尽きる。