岩里藁人『燃えるリンゴ』

 漫画原作者Tさんの実家は青森のリンゴ農家である。高校卒業と同時に上京したが、それは青雲の志と呼べるものではなく、雪国の重苦しい空から逃れたい一心からだった。
 長男であるTさんが家業を継がないと知った父親からの餞別は、硬いゲンコツが二個。それだけだった。新聞奨学生として働きながら学校に通い、出版社への持込みを繰り返した。様々なバイトを経て、ようやく自分の単行本を出した時には三十路を越えていた。その間、たまに母親と電話する以外に故郷との連絡はなかった。故郷に錦というほどではないが、そろそろ父親に詫びをいれに行こうか……そう考えていた折、実家から電話が入った。父親が癌で倒れ入院したという。
 手術をするというので、十年以上ぶりに帰郷した。久々に見た父親は麻酔で眠っていたが、驚くほど小さくなっていた。薬の副作用からか、あれほど硬かった拳は赤ん坊の手のようにフニャフニャだった。「これで殴られても痛くねえな」と思ったら堪らなかったという。手術は成功したが、転移が進んでいて年を越すのは難しいだろうと医者は告げた。
 その年の暮れ、Tさんは多忙を理由に帰らなかった。父親が更に縮んでいるような気がして怖かったのだ。一人でイヴを過ごし、マンションの六階の窓からぼんやり外を見て、ふと気付いた。イルミネーションとは違う光がともっている。ひとつ、ふたつ、それは瞬く間に数え切れないほどに増えた。──リンゴだ。リンゴの実が燃えている。めらめらと炎をあげるのではなく、内側から熱を発するように輝いている。ちょうど溶けたガラスに息を吹き込む、あの火玉のようだった。茫然とその光景をながめていると、電話が鳴った。実家の火事と父親の訃報だった。正月は家でという強い希望で退院したが、逃げ遅れた。自殺ではなく漏電だろうと聞いて、Tさんは大きく息を吐き目を閉じた。たくさんの赤い点々が見える。燃えるリンゴの残像だった。