みどりこ『白雪姫』

ドアを開けると、千春が立っていた。こちらを見つめ、かわいらしく笑っている。俺は目も合わせずに顔をそむけた。
笑えるはずないのに。亭主はいつまでたっても無職で、酒の量ばかりが増えているのだから。
千春は会社の後輩だった。艶やかな黒髪と、積もりたての雪を思わせる肌、それにルビーのような赤い唇――いかにも北国の出身らしいたおやかな彼女に、入社早々ついたあだ名は『白雪姫』だ。
 きれいなだけでなく、まじめで優しい千春は社内のマドンナで、そんな彼女がプロポーズを受けてくれた時はこのまま昇天するんじゃないかと思った。その方がよかったのかもしれない、リストラされた挙句、二人の仲がここまで悪化するくらいなら。
 面接用のスーツからジャージに着替え、テレビをつけて、テーブルに出しっ放しの焼酎をあおる。それでも千春は文句も言わず、唇に微笑をはりつけたまま立っていた。
 ふと俺は、気づかぬふりをしていた妙に甘ったるい臭いにえずいてしまう。
ああ、あれをまだ片付けていないからだ。最近の千春はまったく家事をしないしな。
 俺は立ち上がって、奥へと向かう。寝室のドアを開けた途端、目をつぶりたくなるほど強烈な臭気が襲ってきた。床には、腐って茶色く変色したりんごがいくつも転がっている。千春の故郷から送られてきたものだ。その先に、本物の千春が横たわっていた。
 きっと笑みを消すことができないのだろう。楽しそうに箱からりんごを取り出しているところを刺されてしまったのだから。
――あたし、青森に帰ってこようかな。
 もう戻ってこないのではないか。見捨てられてしまうのではないか。俺よりずっとましな他の男に奪われてしまうのではないか。
彼女を失いたくない一心で包丁を握ってしまったのだ。
 片付けられるはずがない。微笑む千春の視線を感じながら、剥がれかけた唇に口づける。そんなことをしても、俺の『白雪姫』が二度と目覚めないことはよくわかっていたけれど。