沼利 鴻『雪の夜 〜年の瀬の盛岡で〜』

私のほかに、客は誰もいなかった。
外には小雪がちらつき、店内には幽かにホワイトクリスマスが流れている。
頬に風を感じると、入口の扉が僅かに開いた。
雪が運ばれ、ひらひらと舞い込んだ。
それきり、ぱたりと扉は閉ざされてしまった。
「雪女かな」
「かもしれません」
マスターは微笑しながら私の前にグラスを置いた。グラスを両手で包み、そっと口に運び、熱い液体を一口飲み込むと思わず溜息が漏れた。寒い夜の温かいカクテルは、身に沁み入るように美味しい。そう言おうとしてマスターを見ると、どこか思いつめた顔をしている。どうしたの?と訊ねると、はっとして、失礼しましたと静かに礼をした。

暫く間があった。

「雪女だったのでしょうか」
そうしてマスターは、躊躇いがちに語りだした。

昨年の今頃でございました。
天気も小雪がちらつき、今夜のように寒い晩です。
お客様は一人もいらっしゃらず、扉を開けて外の様子を窺いますと辺りはうっすらと雪化粧をしておりました。
と、店の前から橋の方へと真新しい足跡が続いています。
不思議に思いました。
その日はどなたもいらっしゃらなかったのです。
足跡は女性のもののようでした。
わたしは知らず知らずのうちにその足跡をなぞるように踏みしめて、橋の真ん中まできておりました。
すると、そこでふつりと足跡は途絶えていました。
乱れる事もなく、忽然と消え失せているのです。
恐る恐る橋の下を見ましたが暗くて何も見えません。欄干には雪がきれいに積っていましたし、どうしても一歩踏み出さなくては届きません。もし、落ちたのならば雪はまっさらであるはずはありません。
私は突然にぞっとして、そのまま店へと引き返しました。

マスターはそこまで話すと、決まり悪そうにはにかんで、グラスを磨いた。

私はふと思い立ち、店の扉を開け放す。

降り積もった雪に点々と続く足跡。
その先の橋の袂に、白い女の影が見えた。

けれど、刹那の風に掻き消え、粉雪が渦を巻いた。