君島慧是『家出の雪花』

 篤が家を飛びだしたのは土曜の午後だった。いつも気を利かせる婆ちゃんが「団子作るからクルミ磨ってくれねが」と頼む声が聴こえたが振り返らなかった。洟を啜りながら一本道を駆けて森に入ると、この時期には珍しい雪がちらついた。原生林に降る白は冬に逆戻りしたようで、ますます頑なになった駆け足は速度をあげた。
 七部咲きの枝に雪が乗っている。桜が水際に映える、秘密の沢だ。そこに先客がいた。山犬の毛皮を肩に掛け、皮袋のような靴を履いた見慣れない男が、桜の花を見あげていた。篤に気づくと「前はこんな木、なかったけどな」と言った。年の頃なら二十四、五の大きな目の色と髪が明るい茶色の、彫の深い青年である。「もうダメだと思って横になって起きたら、こんな花が見られた」男は自分の鼻を指さした。篤ははっとして洟を拭った。「弥勒さんの水を汲んできてくれないか。この辺りのはずだが、ずっと、どうしても行けないんだ」
 篤は頷いて、男の差しだした竹筒を掴むと駆けだした。岩肌を流れる白い水流に、雪が溶け花が浮かぶ。その水際に屈みこんで筒に水を掬い、急ぎつつも根に足をとられないよう慎重に桜の沢へ戻った。
 ありがたい生きかえった、と口を拭った男が、「持って行け」と桜の根元を顎でしゃくった。この時期には見られない見事なカジカがぴちぴち跳ねていた。と、どおっと音がして、地面を嘗めるように猛烈な風が起こり、桜の花びらと雪が舞い上がった。見あげると、黒々とした円い鋸のような木立に囲まれた空を埋めて、あの犬の毛皮が視える。そのうえで明るい茶色の髪が、下から吹く風になびいていた。「山はむこうだ、帰れるな?」
 篤が頷くと、山より大きなものは東にむかって歩きだした。桜、雪、風、そしてカジカ。カジカ酒は父の好物だから、仕方ないので家に帰る。