新熊昇『天童咲分(さきわけ)駒』

 冬、寒さと重労働の疲労と空腹で毎日何人もの日本人捕虜が亡くなっていった。
 その中に山形県天童出身の者がいた。彼は汚れた小さな袋の中に入れた一組の将棋の駒を持っていた。駒の上の部分が朱色の文字、下の部分が黒色の文字が二色の変わった駒。聞くと、ここに抑留されてから木片を削って自ら作ったものとのことだった。
 月も星も凍る夜、凍死寸前の兵士は(もはやこれまで)と思ったか、錯乱したのか、大切にしてきた駒を取りだし、小刻みに震える手でマッチを擦り、まず歩兵に火を付けた。周囲の戦友たちは(将棋の駒が簡単に燃えるはずがない)と思ったが、駒はまるで花火玉のように弾けて輝いた。
 すると、粗末な収容所の壁いっぱいに美しい東北の風景と、走り回る着物姿の子供達が映し出された。香車に火を付けると御輿を担いだ祭りの行列が浮かび上がり、桂馬ではゆっくりと田畑を耕す馬たちが投影された。
 銀将では河童や座敷童子といった愛らしい妖怪たちが行き交い、金将は優雅な花嫁の行列が進んだ。
 角行では暖かい湯煙をたてる温泉が、飛車では熱燗の徳利と山海の珍味が盛られたご馳走の数々が、まるで手に取れそうなくらいにくっきりと目前に現れた。
 戦友たちは目を見開き起きあがった。
 いよいよ王将と玉将に火が付けられた。
 枝という枝に蕾を付けた桜の古木の下に佇む二人の若者。一人は駒の持ち主である兵士。もう一人は素朴な村娘。桜は見る見るうちに花を咲かせて、やがて満開となった。そしてハラハラと散る花嵐がすべての光景を消し去っていった。あとには事切れた兵士と僅かな炭だけが残ったと言うことです……。