敬志『コラージュ』

 仕事終わりの一人旅で飛び込んだ蔵王半郷の旅館は、山の端に埋もれるように草臥れてはいたが、部屋は小奇麗で主の老夫婦も愛想良くしてくれた。ただ部屋の鴨居にずらりと飾られた、宿泊客であろう人々のスナップの圧迫感には辟易させられ、翌朝そのせいか日の出を待たずに目が覚めた。陽気も良かったので庭をまわっていると、離れに隠れる様に朝の清々さを拒絶する様な建物がある。どうやらお堂らしい。人目を憚り扉を引くと鮮烈な色彩が眠気を吹き飛ばした。絵馬がお堂を埋めていた。中には水彩画や油絵が混じっていた。その全てが結婚式をモチーフにしている。冥婚――未婚の死者同士を死後に娶せる「ムカサリ絵馬」というのがこれだろう。六畳程の堂内にそれが十重二十重と巡ってい た。兎に角本尊に挨拶をと正面に祀られた観音像に近づくと、その陰に何か押し込まれている。引き出すと結婚記念写真だった。紋付と角隠しが並んでいる。
 ただ顔が違っていた。そこだけ別の写真を稚拙に切り抜いて貼ってある。隅にはよれた字で男女の名前も書いてあった。その名と顔に覚えがあった。男は少し前、結婚式場に飛び込み四人の生命を奪った殺人事件の犯人、そして女性はその被害者である。事件当時、犯人と被害者達には接点が無く無差別殺人だと報道されていたはずだ。だが接点はあったのだ。見直せば他にも写真が押し込まれていた。自殺したアイドルとの合成。老人と女学生のアイコラ。雑誌や盗撮の切り張りから画像ソフトでの合成まで、歪に澱んだ片思いが仏の裏に折り重なっていた。
 
 翌々年、山に埋もれた旅館を再訪した。
 一週間前、男の死刑が執行された。一審の判決に上告をしなかっという。
 忌まわしく思い願った祝言は成就したらしい。私は観音像の裏から写真を引き出し、煌びやかな絵馬の上にピンで留めてやった。

巴田夕虚『霊媒』

 O山には死んだ祖母と話をしにきた。
 だが口寄せを頼んで降りてきたのは知らない中年男性の声だった。
「ボクの願いをどうか聞いてください」
 男は数年前に亡くなった者だという。
 恋人が今日この霊場に来ており、一目逢いたいのだと涙まじりに語る。
 だが私の用事に割り込まずとも、待っていればその恋人が呼んでくれるだろうに。
 そういうと「両親と一緒にいるから無理だ」という。
 なんでもその恋人は両親から厳しい束縛を受けており、生前も二人きりで逢うことさえままならなかったらしい。
「あなたはボクの霊媒になる素質がある」
 男はそういい、私に肉体を借してくれと頼んできた。逡巡したが、気の毒な話でもあるようだし、その申し入れを承諾した。
 すると耳の穴からうどんが流れ込むような感触があり、それから男の声が頭の中に直接響くようになった。
(ありがとう、じゃあ行きましょう)
 立ち上がると、意思とは関係なく脚が勝手に歩き出した。人の波をすばやく避け、ぐいぐいと進んでゆく。
(いた、あそこです)
 前方をゆく三人の親娘の背中がみえた。とても仲睦まじそうな様子だが――まさか恋人とはあの娘のことなのか。まだあどけない少女じゃないか。数年前だとせいぜい中学生か、下手すれば小学生だろう。
(電話もメールも、手紙やプレゼントも、毎日送ったんですけどね。あの両親が邪魔をするんですよ、酷いでしょう)
(逢いたくて門の前に居ただけなのにあの父親、殴りかかってきたこともあるんですよ。生意気なんですよね、年下のくせに)
(ああ、でも、あなたのおかげで、彼女はこれからボクと暮らせるようになる)
 私の手が伸びて少女の肩を掴む。

君島慧是『よく晴れて風のない紺色の夜のこと』

 晴れた日の小川の水面をばら撒いたようにちりちり光る雪の表面を、夜が冷たく青く固めていた。巽さんは新聞を巻いた足をいれたゴム長で、よその畑のうえを歩いていた。積もった雪で、大概の畑をただの丘と境界もなしに渡っていける。おかげで道がだいぶ縮まった。
 畑とも丘ともつかないなだらかな青い雪原の、すこし小高いむこうに、ぽつんと一本だけすっかり葉を落した広葉樹が立っている。夜空に広げた枝にせっかく掴まえたお月さんを、いま放している。
 その樹のだいぶ後ろで、地平線の森の手前を、きらきらきらきら白雲母のカケラの群れそっくりに輝いて流れる川のような帯があった。風に巻きあげられた雪かと目を擦ったが、今夜はまったくの無風でそよとも吹かない。手を伸ばした親指と人差し指を広げたほどの高さで北から南へ。酔っ払ってでもいたら天の川でもおりてきたかと思っただろうか。
 白雲母の流れが消えると、あたりは紺色がいよいよ冴えて、母親の針箱に大切に仕舞われていた端切れの色でできた硝子のようだった。風のない夜に色と光ばかりが透きとおる。一番近い星までなら、ずっとこの紺色で続いていたとしてなんの不思議があるだろう。
 気が遠くなるほど雪の原、紺色の空に月灯り、天に枝を広げる一本だけの樹、その影。
 ただひとつ佇む樹が、空の紺とおなじ色の影を雪原のうえで招くように斜に広げている。巽さんのゴム長の後ろでも斜めにくっきり、青い棒みたいに自分の影が雪に刺さっている。
 ぽかんとした辺りの景色に見惚れるあまり、その場に立ち止まったきりの脚をわからせるみたいだった。巽さんはたっぷり吸った息をゆっくり吐きだした。落ち着け。空だって月だってこんなに澄んでいるのだ、落ち着いてみせろ俺と叱咤する。あの樹の横を抜ければ病院はもうすぐだ。いつのまにか満月に白雲母を集めたような雲がかかり、鉱物めいて透きとおる鮮やかな虹を現出した。

蔵開剣人『涙黒子』

「また来ちまった」少し白髪の混じった髪をかき上げながら、ヒロシがつぶやいた。
 ヒロシは、仙台を襲った大震災で、家と5歳下の妻のキョウコを失った。ヒロシは、仕事で家を離れていて助かったのだ。キョウコは、派手な所はなかったが、職を転々とするヒロシを陰ながらよく支えてくれていた。
 ヒロシは週末になると、家のあった場所を訪れていた。家は跡形もなくなっていた。ヒロシは、いつものようにしばらくの間黙って佇んでいた。すると、真っ白くスレンダーな猫が、どこからともなくヒロシにすり寄ってきた。猫は、帰り道も、ヒロシから離れず、何度も追い払おうとしたが、とうとう間借りしている家までついてきた。仕方なくヒロシは、猫を家に泊めてやった。猫はヒロシの隣で嬉しそうに寝ていた。
 仕事に出る時、猫を家の外に出して出かけたが、家に戻るとまたあの猫が待っていた。
「もう、来るなといっただろう」ヒロシは、下腹のでたお腹を折って猫に言った。
「ニャー」猫が鳴いた。
「俺のどこが気に入ったんだ。言ってみろ」
「ニャー」猫はただ、鳴くだけだった。
 次の日も、猫は出て行かなかった。
「今日で最後だぞ」ヒロシは猫を両手で抱き上げて言った。ふと、猫の顔をよく見ると、左目の下に涙黒子があった。妻のキョウコの黒子の位置とまったく同じだ。
「そういえばお前、キョウコに似てるな」
 その夜、ヒロシは夢を見た。夢の中にキョウコが出て来た。
「あなたにまた会えてうれしい。あなたが悲しんでいるから、私は天国の番人に頼んで3日だけ会いに来たの。これからも、ずっとあなたのことを見守っているわ」
 翌朝、目が覚めると猫はもう何処にもいなかった。
「キョウコ」 ヒロシの目には、涙が光っていた。

真木真道『湯煙変化』

 具体的な場所を記すわけにはいかないが、東北のとある温泉地には妖怪が出る。妖怪というよりも人の霊なのかもしれないが詳細は分からない。
 そこでは夜、一人で湯に浸かっていると妙に濃く湯気が立ち上ることがある。湯気は空中で渦巻きながら徐々に一箇所に集まり、やがてぼんやりと人の形を成していく。そしてじきに目鼻立ちまで分かるほどにその姿は鮮明になり、ついには人が出来上がって湯の中に落ちる。だから、そうなる前に凝縮する湯気の中に腕を突っ込んで掻き回さなければならない。ねっとりと纏わり付く感触を我慢しながら、人にならないよう霧散するまでひたすら攪拌を続ける。それでこの怪の害は防げる。何しろ現れるのが裸の美女ならいいが、放っておくと萎びた陰気なじいさんが完成するのだ。湯の中に落ちたじいさんは底に沈んで横たわり、どろんとした色のない目でじっと見つめてくる。その様子には恐怖感以上に変に気分を苛立たされるものがあるという。これにせっかくの温泉の楽しみを台無しにされた人は多い。

岩里藁人『アイスキャンディー』

 半分くれよ、と兄ちゃんは言った。いやだ、とボクは言った。半分あげればよかったんだ。アイスキャンディーは二本あったんだから。
 まん中で二つに割れるアイスはボクの大好物で、冬でもおこづかいで買って食べていた。アイスをあげなかった翌日、地震があって、その後きた津波が、兄ちゃんも、家も、町も、すべて流してしまった。ボクは卒業式の練習で小学校にいたので、助かった。
 その日から、ボクは祖母ちゃんたちと体育館で寝た。こわい夢を見て目がさめると、へんな模様の天井が見えて、ここは家じゃないんだと思った。トイレに行きたくて外に出ると、町の方が真っ黒だった。本当にもう兄ちゃんたちはいないんだと考えながら、オシッコをした。
 一週間くらいたって、毛布にくるまって寝ていると「ケンジー」とボクをよぶ声がした。兄ちゃん? と飛び起きて外に出ると、にこにこ笑いながら兄ちゃんが立っていた。兄ちゃんだけじゃない、隣のおばさんも、いつもアイスを買いに行ったコンビニのお姉さんも、みんな笑って立っていた。その後ろには、町の光がいっぱいについていた。
 よかった、みんな夢だったんだと思ったところで、目がさめた。いつもの、へんな模様の天井が、ぐにゃあとなった。
 外に出ると、やっぱり町の方は真っ黒だった。兄ちゃん、と声に出してみた。声に出さないと自分まで消えてしまいそうだった。

 ――兄ちゃん、ボクは大きくなったら、あの黒い町に明かりをつける人になるよ。ひとつひとつ明かりをつけて、町が元通りになったら、また今日みたいにみんなで会いに来て。そしたら二人で高いところにのぼって、見下ろそう。兄ちゃんたちの町の光と、ボクたちの町の光、ふたつ並んで、きっとアイスキャンディーのように見えるから。

岩里藁人『書痴(とも)有り、深淵(えんぽう)より来たる』

「あっ」いつも通り無造作に冊子小包を開け、思わず声をあげた。手が震える。角礫岩『些戯伊誌異考』――間違いない、それは私が生涯かけて捜し求めていた稀覯本だった。
 著者は柳田國男門下生の偽名と言われている。炉辺叢書の一冊として刊行される予定だったが、危険思想を孕むために中止、少部数刷られた私家版も失火に遭って、世に数冊も残っていないという曰く付きのものだ。五年前、某百貨店の古書市に出品されたとき、私は祈るような思いで抽選に参加した。しかし、落手したのはFという男であった。Fは食費を削って稀覯本収集に明け暮れているという書痴で、私の最大のライバルだった。何度も煮え湯を飲んだり飲ませたりした間柄だが、あの時ほど恨めしく思ったことはない。
 そのFも、もうこの世にいない。あの津波が蔵書もFも、すべてを持っていってしまった。『些戯伊誌異考』も失われたものと諦めていたのだが。それがどうして此処に? 小包には印刷された宛名シールが貼られているのみで、差出人の名もない。私は首をひねりつつ、本棚の一番いい場所にそれを収めた。
 その夜、夢枕にFが立った。寂しげに痩身を揺らめかせている彼を見て、私は今までの因縁をすべて忘れて謝罪したくなった。……すまない、正直に言おう。さっき本を見た時、君の無念を悼むより先に、ただただ嬉しかった。書痴の業と嗤ってくれ。しかし君なら判ってくれるだろう、いや、だからこそ、あの大切な一冊を私に届けてくれたのではあるまいか……そう言いかけて、気付いた。Fの目に、書痴独特の暗い焔が宿っていることに。
 厭な汗をかいて飛び起きた私は、書斎へと走った。潮の香がする。夢の続きではない、足元がビチャビチャに濡れている。訳のわからぬ咆哮とともに書棚の扉を開けると、どっと水が溢れた。潮水はあの本からこんこんと湧き出し、私の最も大切な蔵書すべてを、まるで舐め回したように濡らしていた。